院長ブログ

今やラーメンブームといってもよいかもしれない。メディアでもよく人気のあるラーメン店の特集を目にするし、ミシュランの星がついて話題になった店もある。私がよくでかけるのは、クリニックから徒歩で30分くらいにある東区赤塚交差点ちかくの、麺屋 如水である。夜6時の開店時にはいつも行列待ちができている。故郷の北海道の千歳空港で帰りの飛行機を待つ間に、時間があるとよくターミナルビル3階にあるラーメン食堂街にいくことが多い。まっさきに目にはいるのが、入り口近くにあるエビスープで有名な「えびそば 一幻」さんの行列である。一度食べてみたいと思うが、残念ながらあの行列を待つ勇気がないため、一番奥にある「けやき」の味噌ラーメンを食べてくることが多い。 
海外でラーメンというと、どんな食べ物がでてくるだろうか。以前ニューヨークに滞在時に、近くの中華のテイクアウトで、ramenとかかれたメニューがあった。汁物のテイクアウトとは一体何だろうと一度興味本位で頼んでみた。でてきたのは四角い紙のバスケットにはいった焼きそばであった。世界各地にある中華のテイクアウトではよくこの焼きそばがramenとして売られている。もちろん今は海外でもramen店と書かれた店でramenを注文すると、日本のラーメン店顔負けの立派なラーメンがでてくるようである。
 さて生涯のなかで、もっとも美味と感じたラーメンは?と問われると、今から約50年前の話にさかのぼる。当時私が中学入学前の春休みに父と一緒に北海道のニセコ連峰の春の縦走にでかけたことがある。夕方ニセコ連山からおりてきて、当時の狩太駅(現在のニセコ駅)に着いた。時刻はすでに夜の6時前後だったろうか。次の札幌行きの列車までずいぶんと時間があいていた。駅の周りをみわたしても、食堂などはまったくなかった。駅員さんにどこか食事ができるところはありますか?と尋ねると、近くには食堂はないが、駅前の小売店のかたに聞いてあげましょうといわれた。ほどなく食事をつくってもってきてくれることになった。やがてお店のかたがそろそろと丼を二つもってきてくれた。丼のなかには湯気のたったインスタントラーメンがおいしそうなにおいをたてていた。二人でラーメンを汁まですっかり平らげたのはいうまでもない。食事がおわったあと、すでにあたりは真っ暗になっており、誰もいなくなった駅舎の待合室で石炭ストーブを囲みながら次の列車が到着するのをまった。父が駅員さんに口利きのお礼のお菓子をさしいれると、お返しに事務所の中から綴じた新聞を貸してくれた。良き時代であった。
 平成28年のお盆休みに帰省した時に、思い立って懐かしいニセコ駅にでかけてみた。途中小樽の運河を散策したあと、まず倶知安駅まで行き、そこでローカルのワンマン電車に乗り換えてニセコ駅までいってみた。おりしも観光シーズンのため、電車内は海外の観光客も含めて満員であった。ニセコ駅におりたち、駅舎内にはいると、たぶん何度か改装されたとは思うが、狭い待合室が気のせいか50年前そのままの雰囲気がした。長年心の片隅に残っていた父と食べたラーメンがまるで昨日のように思い出された。駅舎から表にでて、あの思い出のお店のあった方角をみると、それらしい建物がみえた。隣にはしゃれたイタリアンレストランが隣接していた。残念ながらお店はお盆休みのためか、しまっていた。駅前にはミニFM局や温泉施設もできていた。駅舎内の掲示物は英語表記のものが多く、国際的な雰囲気がただよっていた。帰りの電車待ちの途中で駅前に五色温泉行きのバスがきた。医学生時代に春スキー合宿でよくでかけた場所であり、懐かしい記憶がもどってきた。ワンマンバスの運転手から、どうしますか、乗りますか?と声をかけられたが、帰りが心配になり乗車は辞退した。札幌までの帰りみちに、小樽で再度途中下車し念願の小樽の寿司を駅前近くの「よし」で堪能し、センチメンタルジャーニーを終えた。



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